感受性
”ノーチラスな人々”という本を読んでいる。
NPO法人ノーチラス会(双極性障害の当事者と家族の会)
の代表の鈴木映二さんの編集だ。
- ノーチラスな人びと
- 日本評論社
- 本
まだ、途中だけど・・・。
医療編を読み終わって、今まで読んだ本を踏まえてもなかなか参考になる本。
どっかに・・・”感受性の問題”みたいに書かれていた。
小学生の頃、通知簿に”感受性が強すぎる”と書かれていたことがあって、
それは・・・。ずっと、自分でも感じていた。
たとえば、死にそうなすずめを息子が拾ってきた時。えさをあげたかいもなく
死にそうになってた日。
息子の授業参観だったけど、すずめを手の平にのせたまま動けず。
息を引き取ったのに号泣しながら、参観の最後の方にかけつけた。
母には、息子の参観とすずめとどっちが大切?みたいに言われ、
息子は自分が拾ってきたにも関わらず・・・って感じだった。
感受性が強いのは美点だと小さい頃は思っていたが。
社会人になるにつれ、欠点となっていった。
昔は、感受性が強いとか、深く物事を考えるという事が、人生を濃く深くしてくれるもの
だと思っていたが、追い求めれば、追い求めるほど、人生の意味は遠く・・・
普通の幸せは手にしたと思う間もなく、こぼれおちていく。
どれだけ、禅とか瞑想とかにはまっても・・・”平常心”は保てない。
芸術的に”爆発”しようとしても、まずは才能がない。
芸術を鑑賞する感受性はあっても、何かに熱中”し続ける”ことができない。
鈍感な方が、世の中は渡りやすい。
何があっても、鈍感だからだ・・・。羨ましくても、なれない。
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